アレクサンダー・テクニークの会 ブログ

レッスンを始めました。レッスンのご案内、日々の気づきや、思うこと考えることを書きたいと思います。

最初の先生、エゼキエル・アインシャイについて

 2017年アレクサンダー・テクニークを再び学び直そうと思った頃、

 それから今日に至るまで、ときどき私が最初にアレクサンダー・テクニークのレッスンを受けた エゼキエル・アインシャイ(呼称ヘジィ)先生の夢をみます。
 夢の内容は、覚えていなかったり、過去のレッスンのこと等々、とりとめのないことで、記すこともできないものです。
 
 ヘジィは2012年6月、63歳だったか京都市内の病院で亡くなったと聞きました。
 私が訃報を聞いたのは、その翌年でした。

 私が聞いて覚えているエゼキエル・アインシャイについてのことを、忘れないうちに、ここに記しておこうと思います。

 

 私は、1990年に初めてアレクサンダー・テクニークの個人レッスンをヘジィから受けました。そのときその場には、ヘジィを招いた片桐ユズル氏が通訳としていました。新大阪駅近くの、公共施設のようなビルの一室であったように覚えています。


 ヘジィは素っ気ないようすで、レッスンの間も「Neck be free, head forward and up‥‥」と小声で呪文のように繰り返すだけで、私に語りかけてくれるような普通の言葉ではない。私は緊張のあまりコチコチになっていました。

 その言葉を、片桐ユズル氏は「首を楽に、頭は前に上に‥‥」と通訳してくれるのですが、何が何やらわからず、ただただ緊張していました。そのうち、意識がフワッとしてボーッとしたままレッスンが終わって、レッスン料を渡して帰路に着いた、というのが、最初のレッスンでした。
 正直なところ、何かよいことが起こったとは、最初は思えなかったのです。それが、ずっと学ぼうと思ったところまでは、それなりに長い道程があります。それは、また後日。

 

 1990年から1996年頃までは、片桐ユズル氏が招いたヘジィや、ほかのアレクサンダー・テクニークの先生の個人レッスンを、機会あることに受けていました。
 この技術は、先生によって教え方が、ちがうし、印象もちがいます。

 

 1994年から、ブルース・ファートマンと片桐ユズル氏が一緒に京都アレクサンダー・テクニック教師養成スクール(KAPPA)を始めていました。ここは夕方から授業を始めていました。1996年に2期を始めることを、前年に知り、仕事をしていても参加できるということで、私も2期生に加えてもらいました。

 

 その頃、ヘジィが指導者として、教師養成トレーニングを開こうとしていました。ヘジィは、「アレクサンダー・テクニークの教師養成トレーニングは午前中」という昔ながらの方法で開きました。私は午前中トレーニングに参加して、生活をするほど、お金がありませんでしたから、ヘジィの個人レッスンや、トレーニングの練習に入れてもらったりしました。
 私はKAPPAで学んでいましたが、ヘジィから学ぶことがあるし、確かに教えてもらったことがあると言えます。

 

 この時期以降、私はもうヘジィとは、会うことはなかったのですが、
ヘジィと、KAPPA今から思えば特にブルース・ファートマンに、私は大きな影響を受けています。彼らの技術は対極のようですが、どちらも深いものでした。

 

 たぶん1990年代前半だったか、片桐ユズル氏から聞いたことです。
 ヘジィは2歳のとき、エジプトから両親に連れられて、イスラエルに来たそうです。当時は、イスラエル建国の時期で、両親とともにキブツという共同体に参加したそうです。たぶん社会的実験のようなことで、幼いとき、両親から離され幼い子どもたちだけを集めた集団で育った、ということでした。それは、幼いヘジィにとっては辛いことで、トラウマになっているような話しぶりでした。

 

 アレクサンダー・テクニークが、もっとも盛んな国は、イスラエルとスイスです。ヘジィが、いつアレクサンダー・テクニークを知ったか、私は知りません。
 ヘジィは、最初スイスのバーゼルにあるアレクサンダー・テクニーク教師養成トレーニングコースで学んだそうです。
 アレクサンダー・テクニークは、手を使って教えるので、しばらくすると生徒役の人に手で触れるのを練習します。他人に触れることに、ヘジィはこわいようで、おびえてしまって、いくら練習してもできず、いつの間にか、いなくなってしまった、と。当時、同じトレーニングコースで学んだ先生が教えてくれました。その先生にとってヘジィは、「できの悪いトレーニング生」のまま、記憶に残っているようでした。

 

 その後、ヘジィは、ロンドンで、ビル・ウィリアムズというアレクサンダー・テクニーク教師のもとで学び、ひとり立ちしたようです。
 アレクサンダー・テクニークは決して癒やしの技術ではありませんが、ビル・ウィリアムズという人は、心身が傷ついた人に寄り添ってレッスンができる先生だったようです。ヘジィも、そこで結果として癒やされ、前に進むことができたのだろうと、私は想像します。

 

 ヘジィから私が直接聞いたことですが
「もし、君がアレクサンダー・テクニーク・インターナショナル(ATI)という組織などから認定教師として認められなくても、君の技術が向上すれば、生徒はレッスンを受けに来る」みたいなことを言われました。あまりにキッパリ言ったので、覚えています。
 それは、ヘジィの実感で、矜持だったのだろうと思います。

 

 ヘジィが最初に学んだスイス・バーゼルのトレーニングコースは、創始者FMアレクサンダー氏の直弟子の1人、パトリック・マクドナルド系列の学校だったようです。
 イスラエルでは、パトリック・マクドナルド系列の先生が多いようで、スイスのトレーニングコースを卒業できなかったヘジィは、その後もイスラエルでは、あまり歓迎されなかったのかもしれません。

 日本でトレーニングコース主催し教えることができて、きっと嬉しかったことでしょう。

 

 世界の大きな変化のうねりのなかで生き、日本までやってきて日本で亡くなったヘジィを、

今、新型コロナウイルスが世界を変えていく最中で、私は思い出します。

 こうやって書いてみれば、そんなに深くヘジィと交流があったわけではないけれど、私がヘジィから学んだことは、確かにある。

 ありがとう、ヘジィ。