アレクサンダー・テクニークとは何か?という原理を、いろんな角度から説明することは、多くの方がされています。過去に私も書いていますしね。
さて、再び学び教え始めた私にとっては、私の言葉でアレクサンダー・テクニークとは何か? を今の時点での考えを記しておかなければいけないと思っています。
何も知らない私が初めてアレクサンダー・テクニークのレッスンを受け始めたのが、1990年。かれこれ、今年で31年! ざっと30年たつわけです。
いったん離れてしまった私が、アレクサンダー・テクニークに戻ってきた理由は、その技術が、私がまっとうに生きることを助けてくれる技術だから、なんです。
もし、アレクサンダー・テクニークを知らなければ、私は50歳を過ぎて、うつ病かアルコール依存症か肝硬変か、または何かのガンを患っていただろうと思います。もちろん、これは、あくまで私の場合です。
話が脱線してしまいますね、もうしわけない。
今の時点で思うことは、
私たちには、「重さ」があります。
そして、私たちには「動こう」という「力」があります。「力」と変換すると「筋肉の力」とイメージしてしまいがちです。それも含むのですが、それだけではなく、私たちの体にあぶれる、たとえば「エネルギー」のような、「動こう」とする意思から発動する「エネルギー」です。
蛇が石垣を登っていく姿を思い出してください。まっすぐ上に、ときには曲がって、頭が先導し、胴体がついていく。
スルスルと登っていくときは蛇の「重さ」よりも、上に登ろうとする「エネルギー」が強い?多い?ので登っていくことが出来る。
途中で、何かに気がついて、蛇が動きを止めるときは、蛇の「重さ」と、登ろうとする「エネルギー」が同じ、釣り合っている。
蛇は、そのように自分の「エネルギー」を制御して動いています。
動物は「重さ」と、動こうとする「エネルギー」のバランスをとって、動いています。それは、私たちも同じです。
私たちは、生まれたときから、自分の感覚を発達させ、周りの人びとの動きをまねて動いたり、世話をしてくれる人びとに順応するために「ダメ」と言われたことを控えたり、多くは教えてもらうよりは無意識に「学習」して獲得しています。
無意識の学びが、成功するときもあります。しかし、多くの場合、無意識の学びは、葛藤を生んでいます。生まれたときの環境で学んだことと、学校教育で学んだこと、社会生活で学んだことが、ちがっていたりしますものね。
さまざまな文化があり、価値観があります。多くの人が、これも無意識に折り合いをつけて、生きています。
うまく折り合いがつかないと、心身ともしんどくなりますね。私は不器用で、うまく折り合いが付けられなかった。今も不器用ですが、気づくことで、自分を「しんどい」状態から脱することがすべを得ました。これは私にとって、アレクサンダー・テクニークの効用の1つです。
今のところ、私は、
アレクサンダー・テクニークは、身体的な「重さ」を、より効率よく動くために、どのように「エネルギー」を使うか、を追究する技術、と考えています。
自分の身体を「効率よく使う」ことは、自分の「重さ」「動き」に気づくことから、始まります。
しかしながら、誰でも私も、「早くしなくちゃ」とか「変な人に見られないように」とか何か考え(価値観のようなものに)にとらわれていると、自分の「重さ」「動き」を気づくことを失ってしまう。
忘れてしまったことを思い出したら、私は私に戻ってこられます。
戻ってこられたら、そこに安心感があります。
安心感以外の何ものか(たとえばある種の考え)があって安心感を乱しているなら、そのときは、えてして身体的緊張があります。その考えがはっきりしない場合でも、その身体的緊張に気づくなら、それを手放せれば、いいけれど、手放せない場合は、抵抗しない。
これが結構、難しい。
、そういう過程が、より効率よく動くためにエネルギーを使う方向に向かいます。
このような学びの過程が、アレクサンダー・テクニークの学びの過程です。
この過程こそが、目的に至る過程。
というより今の私には、より効率よく動くためにエネルギーを使う方向に向うことが目的なのだと思います。