アレクサンダー・テクニークの会 ブログ

レッスンを始めました。レッスンのご案内、日々の気づきや、思うこと考えることを書きたいと思います。

創始者F.M.アレクサンダー氏のこと

 こんにちは、北村綾子です。
 フレデリック・マサイアス・アレクサンダー(Frederick Matthias Alexander, 1869-1955)は、アレクサンダー・テクニークの創始者です。

 彼がアレクサンダー・テクニークのメソッドを作った過程は、アレクサンダー・テクニークの説明そのものです。メソッドにかかわる内容の前に、F.M.アレクサンダー氏のおいたちをお伝えしたいと思います。

 

 F.M.アレクサンダーは、現在2018年からみれば、149年も前に生まれています。日本の明治維新が1868年ですから、日本の明治維新の頃、F.M.アレクサンダーは生まれたのです。

 F.M.アレクサンダーはオーストラリアのタスマニア島北西海岸のウィヤードで生まれました。その頃、オーストラリアは、イギリスの植民地でした。イギリスはビクトリア女王(1819-1901)が治め、世界各地に植民地を広げていた時代です。

 彼は8人きょうだいの長男で、大きな独立した農場で育ち、生活は自給自足のようだったそうです。石炭は利用していたでしょうが、ガスも電気もない、テレビも電話もない、もちろんPCもスマホもない、灯りは何かの油のランプか、ロウソクでしょうか。
 彼は幼いときに呼吸器疾患に何度も苦しんだため、学校に行かず個人教育を受けたそうです。9歳ぐらいから健康が回復してくると、彼は馬に対して情熱を持ち始め、馬を面倒をみたり訓練をしたりすることが上手になったそうです。彼が愛してやまなった、もう1つのものは演劇です。特にシェークスピアを愛していました。この2つの異なった感心に対し、生涯彼は情熱を持ち続けたようです。

 

 彼は16歳のとき経済的理由から田舎の生活を離れ、昼のあいだは、さまざまな仕事につき、夜は音楽と演劇を勉強し、バイオリンを独学しました。3年後(19歳)、メルボルンに移り、最高の教師たちから演劇と音楽のトレーニングを受けました。余暇に自分のアマチュア劇団を組織しました。お金がなくなると事務員や会計係、お茶の味見係などもしました。しかし、何度も病気を繰り返したり、彼の気性には商業生活があわなかったことから、どんな仕事も長続きしませんでした。

 20歳代の前半、彼は俳優と朗唱者を生涯の仕事にすることに決めました。彼は、すぐにすばらしい名声を得て、独演会、コンサート、個人契約だけでなく演劇プロデュースまでしました。専門は、シェークスピアの場面をたくさん織りまぜたドラマチックでユーモラスな一人芝居でした。

 

 長くなりました。ここまでが、アレクサンダー・テクニークを見つける前の、F.M.アレクサンダー氏の簡単な軌跡です。
 長々と、こんなことを書いてしまったのは、F.M.アレクサンダー氏も大きな変化の時代に生きた一人の人間だったことを、私は興味深く思うのです。すばらしい技術をつくりだした人が、単なる「すばらしい努力の人だった」では人間味がないような……それではつまらないなあと、私は感じてしまうのです。

 

 F.M.アレクサンダー氏の軌跡のお話を続けますね。彼は、俳優と朗唱者として成功するかに見えたのですが、そのうち朗唱中に声がかすれたり、呼吸に問題が起こる傾向があらわれました。
 発声の先生や医療機関は、休むようにアドバイスをしました。

 

 重要な公演の前に2週間、彼は声を休めました。しかし、その催しが半分まできたところで、声がでなくなってしまったのです。
 医者に行くと、しばらく声を休めなさいと言われるだけでした。
(現在のお医者さんなら、レントゲンを撮って精密検査をした後で、問題は見当たりませんね、お薬を出しておきましょう、と言うのかしら……)

 

 そこで彼は、自分の症状に自分で責任を持つことにし、自分で治すことにしたのです。ここから彼が「アレクサンダー・テクニーク」をつくりあげる道程がはじまります。

 

 声を出しているあいだに彼のしていることが、問題の原因であることは、明らかでした。普通に話しているあいだは、特に困難が起こることがないことから、問題の原因は、彼が朗唱するあいだに「何かしている」ことに違いない、と彼は推論しました。

 

 鏡の前に立って、彼は、自分自身の「朗唱のやり方」を正確に観察し始めました。のちに、1枚の鏡では観察に不十分だったのでしょう、3枚の鏡を使ったそうです。


 最初は話しているところを観察しましたが、特に変わったところは見つけられませんでした。次に自分が朗唱しているところを観察したところ、3つのことを認めました。彼は首を硬くしていたので、①頭が引っ込んでいました(彼は、後にこれを「頭を後ろに押すこと」と呼びました)。②彼は喉頭を過剰に押し下げて、そして③あえぎながら息を吸い込んでいました。そしてセリフが難しくなると、このパターンは極端になっていきました。


 彼がすぐに気づいたことは、このパターンは、普通に話しているときにも微妙にあるということです。つまり朗唱するときと話すときのちがいは、程度の差であるということでした。

 

 彼は、このパターンが、彼の問題の原因らしく、まずい「やり方」を作り上げていると推測し、それを防ごうとしました。直接的、意識的努力によって喉頭の押し下げをやめることは出来ませんでしたが、頭を後ろに押し下げるのを防ぐという部分的成功は、収めました。

 頭を後ろに押し下げるのを防ぐことによって、喉頭は押し下げられず、あえぎながら息を吸い込む傾向もなくすことが出来ました。

 

 この誤用パターンを防ぐことがうまくなると、声の質が改善されたのがわかりました。そして医療関係者は、彼の喉頭の状態が良くなっている、と確認しました。

 

 こうしたことからF.M.アレクサンダー氏が結論づけたことは、彼の「やり方」が自分の機能の仕方に、実際に影響するということでした。 

 ここで「よかった、良くなった」と、彼は観察と実験をやめることも出来たでしょうに。彼の観察と実験は止まらなかったのです。

 

 彼は自分の機能をさらに改善しようと、観察と実験を繰り返し、「アレクサンダー・テクニーク」をつくりあげたのです。これには、9年という歳月が費やされたそうです。
 もちろん、仕事をしながら取り組んでいたということですから、毎日どれぐらい観察と実験に取り組んでいたのか、知るよしもないのですが。

 

 F.M.アレクサンダー氏が新しいテクニークを実践し続けると、彼の呼吸困難は消え、彼は軽やかさと優雅さをもって動いたそうです。俳優としての名声は高くなり、特にその声は賞讃されました。

 彼の観客や、ほかの俳優は、声の出し方のレッスンのために彼のところに集まりました。言葉による説明だけでは、自分の経験を伝えるのに十分ではないと分かった彼は、手を使った繊細な指示のプロセスを発明し、それによって心身の改善された強調作用の経験を直接的に伝達することを始めました。このプロセスは、その後、彼が一生をかけ
て発展させ、洗練させていくことになりました。

 

 ということで、F.M.アレクサンダー氏が、アレクサンダー・テクニークを作り出し、教え始めるところまでの簡単なお話を終わります。
 ありがとうございました。